IX.黎明
「こっちの目をずうっと抑えてたのがよくなかったんですって」
俺に医学のことなどわからなかった。それでも、人間は怪我をしたところが麻痺だとか壊死だとかする場合があるという話や、そこからさらに最悪の事態になりうるのだということは知っていた。
ナタリアは片方の眼を怪我していた。話そうとしないのにわけを聞くのは良くないと思ったから、実際そうであるか確かめたことはなかったけど、わざわざ抑えているのはつまりそういうことに決まっていた。俺はもう落ち着いてなどいられなかった。
「治してもらうことはできないのか?」
「もう末期だからほとんど手遅れらしいわ。パリで一番のお医者様に診てもらえば、もしかしたらってこともあるけど、お金をたくさん取るらしいの。村中のうちから借り入れでもしなくちゃとても無理よ。でも、私のお母さんがそんなことしてくれるわけがないわ。もうおしまいよ。いまに痩せこけて、ものも言えなくなっちゃうでしょうね。ねえジャン、私病気で死ぬなんてごめんよ。一緒に死んでよ」
ナタリアが憔悴しきった顔でそう漏らしたので、俺は思わず声を張った。
「そんなことになってたまるか!おばさんがやらないなら俺がやってやる!」
「でもジャン、みんなからしたら、あんたって私のご近所さんというだけなのよ」
「いずれは俺といることになるんだから家族と変わらないよ!そう言うさ!」
俺は会話を切り上げ全力で地面を蹴った。彼女が俺の言ったことをどう捉えたかということを気にかける猶予はなかった。
「このままじゃナタリアが死んじゃうんだ!」
「なんとかしなくちゃいけないんだよ、力を貸してくれ!」
「みんな助けてやってくれ__俺のナタリアを!」
ぴったりお隣同士のうちは多くない。家から家がかなり離れていたのがほとんどだったので、俺は死に物狂いで走った。あちこちで蝶番の軋む音がして、大人が顔を出す。怒り出しそうに顔を歪めていたり、火事でも起きたのかと慌てふためいていたり、その顔に浮かんだ表情はさまざまだったが、いちいち見ていられない。子供はみんな外へ出てきていた。
みんなぞろぞろと教会広場へ集まった。何かあれば集会はそこで行うのだと決まっていた。状況を理解するものと、全くわからないものと、誤解しているものとが入り混じっていた。バヤールの父親がこの無意味な集会を解散させろ、あんな娘の命知ったことかと怒鳴ったとき、俺は我を忘れて殴りかかろうとした。
ちょうどそのとき、ブーケおばさんがやって来た。頬をケシの花のような真っ赤に腫らしたナタリアも一緒だった。騒然としていた教会広場には静けさが訪れた。
「全部、全部この娘のついた嘘です。私の子供は死にやしません。こんな騒ぎを起こして、なんと言ってお詫びすればいいのやら、まったく、ええ本当に___この悪魔をどうか許してやってください」
倦み疲れた声で弁論するおばさんの哀切さといったら、どんな悲劇の主役だって敵わないほどだった。そのような婦人を前に悪罵はついに湧き上がらなかった。たとえそうしたところでお門違いだと誰もが思っていた。罰を受けるべきは、髪を弄りながら観衆を眺める娘の方だった。
集会はだらだらと解散し始めた。刹那の間、俺は自分の視界が赤くに染まったような気がした。すれ違いざま俺に肩を当てるのと憐憫の目を向けるものとがいたが、そんなことは骨髄に徹する恨みと煮えたぎる激憤のおかげで気に留めなかった。
茫漠とした広場に立ち尽くす俺とナタリアの視線がかち合った。彼女の唇が僅かに動く。_『私がいつあんたのものになったの?』
まん丸の目が半月型に細まり、俺に向けてふっと嗤ったのを、東の空が帯びた薄明かりが照らし出していた。
____夜が明ける。そうして俺は、永い夢から醒めたのだ。