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VII.アンジェリュスの警鐘

 冬がやってきた。湿った寒波が村を襲い、ネズミの息すらも凍らせる灰色の季節の到来であった。憎き自習監督の貧弱でつまらない説教がようやく終わると、俺とナタリアはすぐさま学校を飛び出す。瞬間、北風が出迎えるように吹き付け、彼女の絶叫が響いた。

 どんなに退屈で聞くに耐えない講釈も、俺が耳を有している以上いちどは頭を通過していくのは、どうしたって避けようがないことだ。その日の俺の頭の中には、教師があいさつの後で付け足した伝達事項が不思議としぶとく引っかかっていて、その原因不明の懸念はナタリアと並んで帰路を歩いているうちに強まり、彼女の言葉全てに生返事をさせるまでに至っていた。彼女はむくれながら俺の腕を引っぱたいた。

「ジャン、どうしたの?私の話ちっとも聞いてないわね」
「リュシーのことだよ。先生が言ってただろ?昨日からうちに帰ってないって。あいつがどうってことはないけど……いちばんご近所なのは俺たちだ」

 リュシーの名を聞いたナタリアはしばし呆然としてから「ああ!」と叫び、パッと口を抑えたかと思えば、含みを噛み殺すような笑い方をした。

「何を笑ってる?心当たりでもあるのか?」
「ええ。あのね、私リュシーの居場所知ってるの。あの子が学校へ来れなかったのは昨日から居眠りしてるからなのよ」
「バカいえ、うちに帰ってないって言っただろ。こんな日に外で居眠りするのは自殺志願者か旅芸人くらいだ。お前、ウソが鈍ったんじゃないか?」
「これはウソじゃないわよ。ほんとにうつ伏せになって寝てたの!信じないのね?いいわ、こっちへいらっしゃいよ」
 
 雪泥を蹴散らしながら揺れるリボンを追いかける。連れてこられたのは俺とナタリアのうちにほど近い岩だらけの丘だった。足場が悪く遊びにはあまり向かないうえ、すぐそばにはあの羊歯の林の何倍も鬱蒼とした、昼間でも薄暗い不気味な森があったので、よほどの悪童かごろつき
でもなければ子どもは滅多に近寄ろうとしない場所だった。
 記憶の中で褪せた赤銅色だった丘は、今の季節は全体に冷たい鼠色のヴェールを被り、墓地のように静まり返っていた。

「リュシーがここにいるのか?」

 ナタリアは質問を無視して俺の手を引っぱった。彼女について進んでいった先に、地面から三フィートはある巨大な岩があった。ナタリアは岩陰を指差しながらこちらを振り返った。

 

 岩の背面を覗き込んだ俺の喉を__ゾッとするほど冷たい空気が抜け、視界が眩みかけた。
 ごつごつした岩肌に赤スグリのジャムを伸ばしたような掠れた染みができていた。その真下に__リュシーが横たわっていた。青紫色の唇はピクリとも動かず、ぽっかりと黒々しい深淵を覗かせていた。生命の輝きを永久に失った双眸は、恐ろしいものでも見たかのように見開かれたまま静止し、彼女が再び目覚めることは二度とないということを物語っていた。泥だらけの黒い髪は乱れたまま凍てつき、半身に薄く雪が積もっていた。
右側の額にベッタリ付着した赤黒い血痕がぬらりと光った気がした。


 誰がどう見たって、それは死体だった。俺が次に言葉を発するまではかなりの時間を要した。

「リュシーは本当に寝てるのか?…本気でそう思ってるのか?」


 ナタリアは黙っていた。滞留した空気が二人とひとつを囲い、重苦しく周囲を圧迫した。


「こいつがここにいるって、ナタリア、お前だけが、どうして知ってたんだ?」
「あのね…正確には違ったわ。あの子、私に意地悪言ってきたの。あんたのことよ。ジャンと私が愛し合ってるのかって、すごく嫌な感じで聞いてきた」
「何?__いや、いいから__続けろ」
「私が答えなかったら村から追い出してやるって。金物屋の娘にそんな権利を与える法律があったのかしら?__ああ、それでね、そうしたらね!」
 
 「そこで」と、ナタリアは死体の足の方を指した。
 
「ひとりでに転んで、眠っちゃったのよ」

 俺は彼女の顔を見ることができないまま、神様を恨もうと思った。全力で握った拳に爪が食い込み、下唇を血が滲むまで噛んで、万感交到り__俺はひとつ自問した。自分は彼女を愛しているのではないか?ナタリア・ブーケにふさわしい愛とはなんだろうか?少女に裁判や尋問や監獄の生活は耐えられないだろう。では、ジャン・ディリエのすべきことは?

 

 

「リュシーが最期にお前と話していた証拠はあるのか?」
「私、お母さんにリュシーと会ったこと言っちゃったわ」
「それなら、このままじゃ絶対にまずい。お前は監獄行きになる」
「どうしてよ!あの子が勝手に転んだのよ?」
「わかってる、わかってるよ。だとしても、お前がそうしたように見えちまうんだよ。だから誰にも知られないように、見つからないようにしなくちゃならない」
「どうやって?」


 ナタリアの瞳が迷子のように潤んだ。俺が森を向くと、ナタリアは胸の前で手を撫で合わせながら頷いた。


「こいつは俺が運ぶ。いったん森の入り口のところに…俺がうちから鋤を取ってくるまで、お前はそこで待ってるんだ」
「ううん、私は鎌を取ってくるわ」
「鎌じゃ掘れないよ」
「でも、このままじゃ嵩張りすぎるでしょう?」


 ナタリアは話しながら足先で死体の肩を突いた。その拍子に、首がぐるんと向きを変えたので、俺はあやうく心臓が止まりかけた。

 

 

 

 

 

 


 仕事は能率的に、厳粛に遂行された。ナタリアの様子ははじめ普段と変わりなかったが、俺の真っ青な顔を見てか、道具を持って森の奥へ進み始めてからはひそひそ声で話した。
 ここにしようと決めてから、やっぱりもっと奥にしよう、というのを再三繰り返し、ナタリアが「もうここでいいじゃない」ときっぱり言うまでそれは終わらなかった。
 石と霜混じりの土は硬く、はじめのうちは俺が全体重をかけてやっと鋤の三分の一が潜り込むような調子だった。死体を埋めるための穴は俺が作ることになり、ナタリアはしばらくそばに屈んでいた。しかし単調な監督業に飽きたのか、自分の持ってきた鎌を手に空いた手でリュシーを引きずり寄せた。

「あんたばっかりに働かせて悪いもの。私はリュシーをなるべく細かくしておくわ。パンひとつ分くらいでいいかな?」


 ナタリアは返事を待たずにそれを振り下ろしたし、俺はとても返事ができる状態ではなかった。


「道理で切れないと思ったら、これ骨だわ」

「歯ってオスレに使えるかしら?」


 彼女の独り言も、真横の地面から響いてくるべちゃべちゃした音も聞こえなかった。ただ無我夢中で地面を掘り、他のことはいっさい考えなかった。

 

 俺が十分な広さの穴を深く掘ったことがわかると、ナタリアは片方の手に持てるくらいになったリュシーを次々と底へ放っていった。青白かった皮膚はすべて黄褐色に澱み、そのうちいくつかはレーズンのような紫のまだら模様を浮かべていた。俺は意識が朦朧として、かつてリュシーだった塊の悍ましい惨状に吐き気を覚える暇もないほどに疲労困憊だったが、動くのをやめれば理性も失ってしまうような気がして、その作業を手伝った。

 被せた土を何度も何度も二人分の脚で踏みつける。何度も何度も、ナタリアは途中でやめてしまったが、俺は気が狂うまで片脚を叩き込み続けた。__ふと、遠く離れた教会の鐘がガランガランと鳴り出す。午後の七時を告げるその音が神様の忠告のように聞こえ、恐ろしくてたまらなくなり、ほとんど感覚を失いかけながら木の根元へ座りこんだ。


 ナタリアは朽木水で手の汚れを落としてから項垂れた俺のそばへ寄った。スカートを腿の裏側に巻き込みながら淑やかに腰を落とし、悪戯っぽい笑顔を浮かべた。頬はばら色に染まっていて、瞳に宿った星々はきらきら瞬いた。そうして彼女は穏やかに口を開く。


「あのね、ジャン。リュシーがひとりでに転んだっていうのは___」


 俺はナタリアのマフラーを荒々しく掴み寄せ、薄い唇に縋るように噛みつき、数秒の間はそのままでいた。言わせるものか。彼女にその先を続けさせることは、たとえ命に換えても許さないと思った。

「やめてくれ」

 顔を離し、彼女の片方の瞳を射抜かんばかりに睨みつける。震えていた手はしっかりと動くようになっていた。しかし声は自分でも驚くほどに覇気のない、情けないものだった。


「お前の言ったのはぜんぶほんとうのことだよ。お願いだから、そうだって言ってくれ」


 ふとナタリアは俺の頭に手を乗せた。その仕草は彼女に似つかわしくなく、小さな子供を慈しむように丁寧だった。

 

 


「いいわよ。私、ウソなんてつかなかったわ。ジャンって本当に私を愛してるのね」

 

 


 一気に全身の力が抜け、温もりの方へくずおれた俺を、悴んだ指先が何度でも撫でていた。

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