Ⅷ.エクソシスム
「ねえ、もう撮れたでしょ?」
発せられた声にはっと我にかえる。古びた窓枠の外を見れば、金に縁取られて強烈な茜色を透かすトネリコの葉が揺れていた。アリスは腕のだるさに耐えきれず、全身の力を抜いて横たわった。
「疲れた。何か食べるものない?」
「あれば差し出してます」
「そう。じゃあ帰る」
アリスは華奢な腕を服に通し、襟首から背中へ忍び込んだ髪束をさっと流して立ち上がる。
「僕は来週にはここを離れなくてはいけないんです」
アリスは返事を遅らせた。夏の終わりが近いことに今更気づいたようだった。
「寂しくなる」
「あなたが?__まさか」
「私が寂しいと思うのが変?友だちと離れなきゃいけなくなるのは、誰だって寂しいんじゃないの」
ジュードがそれに答えないので、アリスは本当に帰ろうとした。アリスの足が扉へ向いた瞬間、彼は声を出した。
「君も一緒に来ますか?」
「ロンドンに?どんな冗談なの」
「君にリゴレットやカルメンを観せてあげたかったから」
「興味ないよ」
アリスは扉へ向かって一歩進んだが、歩みは差し出されたフェアリーケーキに阻まれた。
「待って、今日はすぐに現像するから、ここへいてください。食べものもある」
ジュードが現像液を机へ置く仕草が普段の彼からすれば粗雑であったことに、アリスは気付いていないわけではなかったが、気に留めなかった。
机には金と酢酸の調色剤やガラス乾板といった、実にたくさんのものが置かれていた。アリスにはそのような器物や彼の仕草に気を散らすよりも、糖衣にくるまれたチェリーを噛み潰すことの方が優先されていた。
アリスは暗闇に包まれた空間が次の瞬間には赤く塗りつぶされるのをぼんやりと眺め、蒸留水の涼やかな音だけがさみしく響くのを聞いた。
「もう平気だ。そこのカーテンを開けてくれる?」
アリスはケーキを齧りながらでも出来ることであれば、助手業を嫌がるようなことはなかった。
口をもごもごさせながら小窓の方へ歩いて行き、厚手のカーテンに手を掛ける。__小窓?この小部屋にはそれほど多く出入りしていたわけではない。だけど、小窓のあった覚えはなかった。カーテンが布切れのようだったという記憶も見当たらない。きっと自分は興味がなくて覚えられなかったのだろう。
「ありがとう」
「なんだか、思ってなさそうだね」
「君は僕の考えが何でもわかるんだ」
ジュードがあまり妙なことを言ったので、アリスはぱっと振り返った。
「わかるもんか。なんとなくそう思ったから……」
アリスは立っていられなくなった。たった今カーテンを開けた窓の木枠を咄嗟に掴んで驚いた。元の大きさに戻っていたのだ。…かと思えば、縮み始める。それは物体の問題ではなく、自分の視界が無茶苦茶に歪んでいるのだということが、アリスにはわからなかった。次にドンと何か重いものが落ちるような音がしたが、それが自分が倒れて後頭部を打った音だということも、やっぱりすぐにはわからなかった。
「……いったい何なの?」
「君には悪魔が棲んでいる」
「何言ってるの?」
「僕を虐めぬき、君の時計を進めてしまうような、邪悪な悪魔だ」
「あんたを__何だって?」
「君を守ってあげたいんだ。大人になんかならなくて済むように」
「歳を……とるのは、当たり前の、こと…でしょ?」
「僕は手遅れなのか?」
その問いかけが届いたかどうか、青年にはわからなかった。
「君が永遠に僕の友人であるためには仕方のないことだ」
だらんと投げ出された手からは崩れたケーキの死骸が落ち、意識を失った少女と一緒に床へ転がっていた。