V.獅子と調教師
サン=シャンテリー村は全体的に静かだった。誰かの葬式や伝染病があったわけではなく、ただ先週までが騒々しすぎたというだけの話だ。
「おもしろかったわね!とくにあの猛獣たち、マルセルなんかよりだんぜんりこうよね」
牧草地を囲う古い柵に肘をつきながら、ナタリアは夢を見るようにいった。村は収穫祭が終わったばかりで――つまり毎年この季節に訪れては興行をしていくサーカスの興奮が、子どもは誰だって冷めやらぬままだったのだ。誰もがその楽しい日を一ヶ月より前から心待ちにし、ありったけの元気を使い切る。大人はみんなくたびれた様子でも子どもはそうはいかない。
「ああ、すごかった。あいつはどんなに厳しく躾けてもあんな芸当はできないぜ」
サーカスは午前と午後で演目がほんの少し違ったし、席だってたくさんあったけど、俺とナタリアの感想が食い違うことはなかった。女の子と__しかもナタリアと二人でサーカスを見に行くようなことは、まったく前代未聞であった。だけど俺は自然とそうするものだと思ったし、思いたってからすぐに彼女を誘った。サーカスの公演よりもはっきりと、あの時の欣然とした彼女の顔が記憶に焼き付いていた。
「じゃあ、あんたはできるの?」
「えっ?まあ、そうだな。俺は人間だし動ける方だから、玉乗りくらい少し練習すればできるよ。ちょうどいい玉がないから試してやれないけど」
「なら玉乗りはいいから、綱渡りをやって!綱もないから、そうね…この上を歩いてみせてよ。この高さなら落ちたって痛くないでしょう?」
ナタリアはそう言って柵の上を撫でた。かつては立派な代物だったのだろうが、風雨にさらされた古い柵は、とてもその上に全体重を預けようとは思えないほど腐蝕され、ほとんど朽ち欠けていた。
「そいつは古過ぎるし、ここら一帯が雨のたびに泥濘むのは知ってるだろ。見てみろよ。抜けかけの乳歯みたいにグラグラしてる。人間の曲芸師でも無理だね」
「あら、じゃあ綱はグラグラしてないとでも思ってるの?嫌ならいいわ。あんたはマルセルと変わらないってことね」
「俺が?いい加減にしろよな」
「だってそうじゃない。いくら厳しく躾けてもあんな芸当は無理なんでしょう」
「よし、ならやってやるよ。あのウサギ野郎と一緒にされちゃたまんないよ」
今度ばかりは自分の軽率な宣言を詮なく後悔していた。丈夫で固い土地に立つ柵ならばなんてことはないが、この土地はそうではないし、腐乱死体みたいな木の板のいちばん狭いところを歩くなどということが一度で成功するとは思えない。
___しかし、もしかしたらということがある。神様が力を貸してくれて、うまくいくかもしれない。仮にそうならなかったら、彼女に笑われるのだろう。それは断固として嫌だとも、それほど嫌ではないとも思った。どうせ笑われるのならば驚いて笑われる方がよかった。彼女が笑うのに嫌な気はしなかった。
支柱へ登るのは想像より易いことだった。サーカスの猛獣たちがしていたのと同じようにやるときっとおかしなことになると思ったので、曲芸師の綱渡りを真似ることにした。胸を張り息を吸って、右足を一歩出してみた。案の足場はグラリと傾いたけど、それ以上左にも右にも動かないように感じられた。つまり、世界一狭いまともな道になったのだ。続けて左足を出す。揃えるには幅が足りないので、前へ置くしかない。ナタリアは黙って見ていた。
俺は気持ちが昂った。不可能ではなくなってきたのだ。支柱から両足とも離すことができたので、あとは万事うまくいくと確信した。――だが、俺は慎重な人間ではなく、ささいな興奮で心のみならず足取りまで揺らぐ青い男に違いなかった。アウステルリッツへ進軍したかの軍師のような勇敢さで次の足を出した時、慢心は仇となり、反旗を翻した支柱が逆側へ倒れだす。しかし次に起きたことは、その可能性を頭の四分の一くらいにはずっと入れておいたことだった。
もしかしたらということはなく、案の定落ちるのだ。神様は用事があったらしい。彼女は笑うだろうけど、詭弁を弄する愚かな真似は絶対よそうと思った。なるべく傾いた態勢のまま地面へ転がる。泥の付いた服を叩きながら、俺は彼女が何か言うより先に笑い、ふざけながらいった。
「だめだ、だめだ。俺はウサギだったのかも」
弾けるような音と同時に頬が熱を帯びる。せっかく立ち上がろうとした俺は再び地面へ転がり、またばねのように立ち上がってたたらを踏んだ。そうしてはじめて身に起こったことを理解した。俺はナタリアに殴られたのだ。
「――いったい、…一体なんのつもりだ、お前」
「ウサギ野郎とは違うんでしょう?」
「同じなもんか。けどここを歩くなんて人間には不可能だ。ほんとにわかんねえやつだな。嘘は謝るから怒るなよ」
「私怒ってなんかないわ。それに一度で成功するわけないじゃない!猛獣だってはじめはてんでだめで、だけどたくさん訓練したんだわ。諦めちゃだめよ。本当は鞭で打つんでしょうけど、やっぱり持っていないからこうするの」
こう、と言いながらナタリアは掲げた拳を揺すった。いつの間に口の中を切っていたらしく、金臭さが強まるような気がした。俺は粗暴な言葉づかいでいった。
「調教師だって、猛獣のことから訓練のやり方まで色々知ってなくちゃいけないんだぜ。ただ命令して失敗したら撲るくらい俺の親父でも出来らあ」
「私ジャンのことならなんでも知ってるわよ」
「お前は俺に猛獣ごっこをさせたいんじゃなくて、俺が猛獣役の訓練ごっこがしたいんだろ?」
「嫌なの?」
自分の言われた言葉の意味をナタリアはすぐに理解できないようだった。俺は咽せそうになった。初めて聞く彼女の悲しそうな声に動転した。
「そんな風に言うってことは、私と遊びたくないのね。じゃあいいわよ」
「違う!」
俯いた彼女の肩を掴み寄せ、言っておかねばならないことを__自分自身にも今一度理解させる必要があったことを、俺は必死になって吐き出した。
「いいか、お前の遊びにはいくらでも付き合ってやるよ。俺がそうするって決めたんだ。あの退屈な連中とは手を切っちまったしな。猛獣役を俺以上にうまくやれるやつなんかいないし、丈夫さは本物以上だよ。女の子に殴られたくらいじゃなんともねえ。だから続きをやろう」
彼女がみるみる笑顔になったので、俺は身体中に安堵と使命感が染み渡るのを感じた。
「ええ、やるわ。じゃあもう一回はじめからよ、ジャン!落ちたりしたら殴ってやるから!」